星の記事を書いたので、
星が見たくなりました。
どこに星が在るだろう?
どこに行けば星に逢えるだろう?
と思うと、星はいつでも、空に在るわけです。
でも、見えないんですね。
ここのところ、昼は雲しか見えず、
夜も雲しか見えずでした。
金曜日に、宮沢賢治の研究者の方からお手紙をもらいました。
「研究のこと」に書いてある、私の祖父母が戦争中に作っていた手作り文学雑誌のことを手紙で書き送った、そのお返事でした。
お手紙の中で、
若き森銑三(もりせんぞう、江戸文化研究者の先駆者として知られる)が、
わたしの故郷、群馬の高崎の小学校で「代用教員」をしていた時に出していた、
子どものための童謡雑誌を教えてもらいました。
『小さな星』と題したその雑誌の巻頭言には、
20代の森銑三のこんな言葉が書いてあるそうです。
わたしらの愛する小さい人達。
びろうどのそらにまたたきする星のように清くあれ、美しくあれ。
わたしらは、みなさんの純なたましいが、
どこまでもすなおに、まっすぐに伸びて行くようにと、
こんな雑誌を起こしました。
(『小さな星』創刊号、1921年)
「小さい人」への信頼と成長を願う心が、強く感じられる文です。
これを読んだとき、私はミヒャエル・エンデの『モモ』の一番最初にある「アイルランドの子どもの歌」というのを思い出しました。
やみにきらめくおまえの光、
どこからくるのか、わたしは知らない。
ちかいとも見え、とおいとも見える、
おまえの名をわたしは知らない。
たとえおまえがなんであれ、
ひかれ、ひかれ、小さな星よ!
(ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳、岩波書店、1976年)
大正時代の『小さな星』は月刊誌として、県内外に読者を拡大、発行部数も増加しましたが、
当時の教育界に受け入れられず、代用教員であった森は小学校を免職、共同編集者は田舎に転任となり、10号で廃刊となったそうです。
大正11年(1922年)のことです*1。
*
日曜日に、妻と浅草橋の「ミネラルマルシェ」に行ってきました。
いろいろな鉱石や宝石、隕石までも展示して売っています。
そこで、また星に逢いました。
「フローライト」、別名「蛍石」というそうです。
正八面体(ピラミッドを上下にくっつけた形)に劈開します。
青いフローライトはめずらしいそうです。
お店の名前を見ますと、
「小さな星雲」とあります*2。
私は、青色のフローライトと、透明のフローライトを買いました。
家に帰ったあと、写真を撮ってみました。
双子の星のイメージです。
妻が買ってきた、青水晶と火星から来たという隕石とも撮ってみました。
こちらは、兄弟星とか、巡礼の道行きという感じです。
星に逢いたいと思ったら、
意外なところで、逢えるものでしたね。
ひとむかし前、「星々の悲しみ」という曲をつくったのを思い出しました。
*1
「自由画展」と「小さな星」(高崎市ホームページ)
『小さな星』の創刊号の写真が載っています。
http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013120900646/
*2
「小さな星雲」ウェブサイト