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イサクの物語(世代をまたぐ暴力)

 哲学者のジャック・デリダは、ある夜夢をみる。

 夢の中で年老いた盲者が、自分にのしかかって攻撃してくる。

「無防備な私、私の息子たちに危機が迫る」(ジャック・デリダ『盲者の記憶』p.21)。

 

「(その夢の盲者たちは)祖先だった。どちらかといえば「父」であり、さらには祖父、いずれにせよ長老たちだった。…私の夢には…少なくとも三つの世代が登場する。すなわち、祖先たちの白い姿、それから私自身の世代が息子の位置に来る。しかしそれはすでに父である息子である。なぜなら、その息子たちに今度は危機が迫るのだから。そしてこの世代たちは互いの上を飛びこえる、飛びかかる、こうして攻撃をしかけるのだ。」(同書p.25)

 

 これはなんの夢だろうか

 キーワードは「三つの世代」だ。

 祖父が父に飛びかかり、(おそらく父によって)子どもが危機にさらされる。はじめの祖父の暴力が、波紋のように、子孫に影響を与える*1。

 それを夢のかたちで見せるということは、何かを「気づくべきである」という示唆なのか?

 

*1 これをグラフィカルに描いたものとして、心優しい霊能師音羽マリアを描いたまんが作品がある(特に『怨讐の彼方へ』所収「共鳴する波紋」)。世代をまたぐ暴力をいかに浄め、愛へと変えていくかは文字通り多層的なテーマで、音羽マリア作品は、その多層性のひとつの視点を提供してくれる。デリダのこの著作(『盲者の記憶』)も、エリック・バーンの交流分析も、中尾英司の『あなたの子どもを加害者にしないために』も、多層性のひとつの視点を提供してくれる。

 

 しかし、(仮に「世代をまたぐ暴力」とこのテーマに仮の名前をつけるとして)この「世代をまたぐ暴力」というテーマは、デリダの哲学とは一般的には関連づけて理解されてこなかった。たとえば高橋哲哉が位置付けたデリダの哲学は、エマニュエル・レヴィナスの哲学の延長線上のものとして、「まったくの他者との関係性」のあり方を問うものである。『盲者の記憶』は、こうした整理からは位置づけがたい。

 とはいえ、もし「まったくの他者との関係性のあり方を問う」ということを、「今まであまりによく知っていると思っていた人(肉親や家族)を、いわばまったくの他者として見つめ直して、関係性を取り直す、『出会い直す』」というふうに捉えるならば、デリダの夢が伝えるメッセージは、「父を考えよ、祖父を考えよ、(ないしは)子を考えよ、まったく新しく」ということである。そして、夢とは浄化のプロセス、治癒のプロセスのはじまりでもある。「まったく新しく考える」という営みは、浄化や治癒のプロセスを推し進めるものともいえるだろう。

 

 

 デリダは、旧約聖書に現れる「親子関係」のことを書いてゆく。

 

「エリ、イサク、トビトといった旧約の老いた盲者たちは、皆、息子のことで苦労している。彼らは息子たちに苦しめられ、苦悩の中でつねに彼らを待ち焦がれている。」(同書p.25)

 

 息子たちに苦しめられる父。これは、先ほどまでのデリダの夢の構図(父や祖父が攻撃してくる)とは逆のことを言っているようにみえる。どういうことだろう?あるいは、この暴力の波紋の中では、父も子どもに苦しめられるように感じている、自分が被害者と感じているのかもしれない。

 はじめの(起源の)暴力を知るということ、そこからつらなる波紋にまきこまれていたことを知るということ、そして自分も暴力をふるえば(あるいはもっとありふれていて、かつ深刻なのは、目の前の子どもをひとつの存在として愛をもって見なくなれば)、自分もまた、「見えぬ起源」の一部に取り込まれてしまうということ。しかし自分がこのことに気づき、愛と勇気をもって行動すれば、変わりはじめるということ。私ならこういうことを考える。

 (そして、以下、アブラハムの息子であるイサクという人物に寄せてデリダが描き出すことは、「目の前の子どもをひとつの存在として愛をもって見なくなれば、自分もまた、「見えぬ起源」の一部に取り込まれてしまう」というひとつの物語である。)

 

 デリダの考察は、この問題と「目」の問題を結び合わせているようだ。少し長くなるが、旧約聖書「創世記」からの題材の部分を引用する。

 

「『イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた(当然、「盲者」の文脈ということになる)。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて、「息子よ」と言った。エサウが「はい」と答えると、イサクは言った。「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬかわからない。』(創世記27-1) 

 他方、彼の妻リベカがイサクの盲目につけこんで息子を入れ替えた、つまり、遺言の瞬間、彼女の愛し子ヤコブをエサウに置き換えた計略も、物語は三人称に委ねられる。強迫的な終わることのない問い。一人の息子をいかに犠牲するのか?つねに独り子である、かけがえのない(unique)息子を?」(ジャック・デリダ『盲者の記憶』p.28)

 

 イサクの家族をおそう「強迫的な、終わることのない問い」とは何か、デリダはこう解く。それは、「つねにかけがえのないはずの息子たち、どちらかをいかに犠牲にするのか」という問いであると。そして、これはイサクの父から移された問いであるのだと

 

「イサクにとってこれは他人事ではない。彼の父(アブラハム)は、決定的な瞬間、二度にわたって「目を凝らした」、息子を犠牲にしなくてはならない瞬間、続いて牡羊に置き換えて彼に犠牲を免れさせる瞬間に。二人の息子の間でいかに選別するのか?これは同じ問いが二倍になったのである。…二人の兄弟でいかに選別するのか?双子の兄弟の間で?…これは、一方が他方を代補することができる両目の瞳の間で選別することよりもむつかしいことではないだろうか?一人の息子を犠牲にすること、それは少なくとも、おのれ自身の視力を放棄するのと同じほど残酷なことである。」(同書、p.28)

 

 「同じ問いが二倍になった」、どちらがxでどちらが2xかわからないが(イサクの経験?エサウとヤコブの経験?)、「暴力の波紋」と私がさっき書いたことを、デリダも言おうとしているのだろう。目との関係はどうだろう?その目を、残酷な選別、つまり、えらべないものと、かけがえのないものをどちらか犠牲にするために使うことは、自分の目を潰すことと同じだ、ということだろうか?これでは、少々常識すぎる解釈になってしまうか。

 もし、えらべないもの、かけがえのなみのどちらかを犠牲にするためにその目を使うことが、目をつぶすことと同じならば、その逆、「目を生かす」ことは、何を意味するのだろうか・・・?