- 外からの力
「【1】秦ノ河勝の壺*1・桃太郎の桃・瓜子姫子*2の瓜など皆、水によって漂いついたことになっている。だがこれは、常世から来た神のことをも含んであるのだ。瓢(ひさご=ひょうたん)・うつぼ舟*3・無目堅間(まなしかたま*4)などにはいって、漂い行く神の話に分れて行く。だから、いずれ、行かずとも、他界の生を受けるために、赫耶(かくや)姫は竹の節間(よのなか)に籠っていた。
【2】この籠っている、異形身を受ける間の生活の記憶が人間のこもり・いみとなった。いみやにひたやこもりすることが、人から身を受ける道と考えられた…
【3】こうした殻皮などの間にいる間が死であって、死によって得るものは、外来のある力である。その威力が殻の中の屍に入ると、すでるという誕生様式をとって、出現することになる。正確に言えば、外来威力の身に入るか入らぬかが境であるが、まず殻をもって、前後生活の岐れ目と言うてよい。だから別殊の生を得るのだ。一方時間的に連続させて考えるようになると、よみがえりと考えられるのである。すでるは「若返る」意に近づく前に「よみがえる」意があり、さらにその原義として、外来威力を受けて出現する用語例があったのである。」(『古代研究 Ⅰ−1』pp.136-7)
*1 秦河勝の壺
秦河勝は、6世紀から7世紀の人で、聖徳太子に大きな影響を与え、富裕な商人だったともいわれている。景教(ネストリウス派キリスト教)を日本に持ち込んだといった説もあり、古代史の謎を濃縮させたような人物だ。
以下は、 奈良県磯城郡田原本町のホームページの説明である。
「秦河勝は洪水に際して、長谷川(はせがわ)(初瀬川)を流れてきた壺の中に入っていた嬰児(えいじ)だったそうです。この様子は、ときの天皇の夢にあらわれ、「私(河勝)は秦始皇の再誕である」と名乗って、天皇に重く用いられたということです。このことは花伝書(1)にも出ています。
(高田十郎編『大和の伝説』より)
(1)花伝書
『花伝書』は「風姿花伝」の通称で、世阿弥が書いたものだそうです。
その神儀篇に
《欽明天皇の御宇に、大和国泊瀬の川に洪水の折りふし、河上より一つの壺流れ下る。三輪の杉のほとりにして、雲客この壺をとる。中にみどり児あり、形柔和にして玉の如し。
これ降人なるが故に内裏に秦問す。その夜、帝の御夢にみどり児の曰く。
「我はこれ大国、秦の始皇の再誕なり、日域にゆかりありて今現在すと云々」。帝、奇特に思い召し、段上に召さる。成人にしたがひて才智人に越えて、年十五にして大臣の位に上がり、秦の姓を下さる。秦という文字「ハタ」なるが故に秦河勝これなり。》 とあります。
十数年の歳月をかけて完成した「風姿花伝」は、世阿弥の最初の能芸論で、全七篇からなっています。」
風姿花伝の中で、明らかに世阿弥は秦河勝を神聖視して扱っている。
*2 瓜子姫
昔話の一。異常誕生譚。川を流れてきた瓜の中から生まれた瓜子姫を主人公とする話。姫が美しく成長して機を織っているところに天邪鬼(あまのじやく)が来るが,結局は姫を育てた老夫婦に退治されてしまうという話が多い。(スーパー大辞林)
*3 うつぼ舟
この奇妙な伝承については、下記の絵をまずは参照したい。
虚舟。『漂流記集』(作者不詳)から。流れ着いたのは常陸国の原舎ヶ浜(はらしゃがはま)。
*4 無目堅間(まなしかたま)
堅く編まれた竹の籠、上代では舟をも意味していたという。
この文章は、大きな跳躍を挟んで、3つの意味のかたまりがあるように思われる。
【1】の部分。桃太郎を最も有名な例とする、川や水によって漂い着く存在を、「常世から来た神」と位置付ける。かれらは、「他界の生を受けるために」壺や桃や瓜の中で籠って漂っていた。かぐや姫も漂いはしなかったが、竹の節の中で籠っていた、同じ種類の者として位置づけられている。ここまでは、いわば神話の範疇の話だ。
しかし、【2】の部分。「この籠っている、異形身を受ける間の生活の記憶が人間のこもり・いみとなった。」ここで神話の範疇の話が、人間の営みの世界に大きく跳躍する。異界からこの世界にやってくる神の記憶が、「生活の記憶」という言葉で繋げられ、一気に人間の「籠り」「忌み」へと接続される。こうなると、現代の「引きこもり」の祖型は、これらの神の生活の記憶にダイナミックに接続されうるものになる。ここでも、折口における「神」と「人」との距離は近い。近いどころか、互いに交じり合う。
だが、【3】の部分になると、こうした「籠り」の時間は、紛れもなく「死」の時間であることが強調され、死を経て「外来のある力」を得て誕生する(ないしはよみがえる)とされる。ここで若干不明なのは、この「外来のある力」「外来威力」の正体である。「その威力が殻の中の屍に入ると、すでるという誕生様式をとって、出現することになる。」「籠り」の時間は、「一種のねむりの時期」だが、実際は「死」でもあるという(そうした「眠り」や「死」の時間を、現代私たちはどれほど保障できているのか?)。死んでいる体に力を与え、新しい誕生へ導くこの「外からの力」を、折口はどう捉えているのだろうか?(中沢新一は、「死界からの風」といった用語で説明していた記憶がある)
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- 二つの「すでる」/二つの誕生
この箇所の後段に、以下の文章が続く。
「すでる者はすなわち、外来魂を受けて出現する能力あるものの意である…この語の用例は特殊である。神意を受けた産出者である。選ばれた人である。おそらく神人の義である…[それに対して]同じ古詞の中にも、すぢぁが一般の人の義に解して用いられ、世間でも使うようになったのだと思う。」(ibid. p. 140)
この神人について触れて、以下の文章が続く。
「一家系を先祖以来一人格と見て、それがつねに休息の後また出て来る。初め神に仕えた者も、今仕える者も、同じ人であると考えていたのだ。人であって、神の霊に憑(よ)られて人格を換えて、霊感を発揮し得る者と言うので、神人は尊い者であった。それが次第に変化して来た。神に指定せられた後それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなおさずすでるのであって、おなじ資格で、おなじ人がいることになる。」(ibid.
pp.140-1)
この文章は、一段落の一続きの意味の文章に見えながら、途中の「それが次第に変化してきた」を見落とせない文章である。何が、何へと変化してきたのか、それが掴みづらい。一文ずつ確認するために、文ごとに番号を振る。
(1)一家系を先祖以来一人格と見て、それがつねに休息の後また出て来る。
(2)初め神に仕えた者も、今仕える者も、同じ人であると考えていたのだ。
(3)人であって、神の霊に憑(よ)られて人格を換えて、霊感を発揮し得る者と言うので、神人は尊い者であった。
(4)それが次第に変化して来た。
(5)神に指定せられた後それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなおさずすでるのであって、おなじ資格で、おなじ人がいることになる。
(1)と(2)は、同じ意味のことを言っている。一つの家系の先祖以来子孫まで、「ひとつの人格」、「同じ人」だと考えられていたというわけだ。そして、この(1)と(2)の内容を詳述しているのは、実は(5)(正確には(5)の後半)であることが判る。前代の死を、ひとりの人間の断絶した死とみなさず、ひとつの人格の「静止」ととらえ、後代が継ぐのは、その静止を経て再び誕生するとみなす、ということが書かれている。以前、「すでる」の前段階の「籠り」には死の意味すら付けられていると書いたが、この(5)においては、現実の死を「籠り」とみなし、新たな誕生の準備期間とみなす考え方が描かれている。この(1)(2)(5)で書かれていることは、この段落の直後に以下のように要約される。「こうして幾代を経ても、死によって血族相承することを交替と考えず、同一人の休止・禁遏(きんおつ)生活の状態と考えたのだ。死に対する物忌みは、実はここから出たので、古代信仰では死は穢れではなかった。死は死でなく、生のための静止期間であった。」(ibid.p.141)
問題は、(5)の前段に「…それを敷衍して」とあることだ。この状況は、何かから「敷衍」されて到達せられたことが判る。ここで、(3)の内容に注目すると、「人であって、神の霊に憑(よ)られて人格を換えて、霊感を発揮し得る者と言うので、神人は尊い者であった」。ここで「神の霊」と書いてある内容が何を指すかは、再び三度折口の思想全体の問いへと戻るものであるが、この論文の文脈では、「外来魂を受けて」(直前の段落の表現)ということになる。ともあれ、外から来た魂に憑られることで、人格が換わり、霊感を発揮できる者になった人、これを「神人」と言ったという。これは、別に血族相承の話ではない。なんらかの理由で、「外来の魂」を身に受けた人のことを指している。そして、ここに(4)「それが次第に変化してきた」が続き、これを受けて「神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して…」とある。すなわち、「外来の魂」を受けた人は、「ある静止の後転生した」者、というとき、この「静止」は、常識的な意味での肉体の生命活動の停止という意味での死ではなく、いわゆる「籠り」、ないしは精神的な停止や死といった意味であろう。
すなわち、この一つの段落には、二つの意味合いを異にする「すでる」の様式の変遷が描かれていると見るべきである。外来魂を身に受けて、精神的な停止ないし死の「籠り」の期間を経て、霊感を発揮する存在になったという「誕生=すでる」と、いわばそうした存在が次の「代」に世襲するのを「誕生」ないしは「引き継ぎ」とみなすという意味での「すでる」である。言い換えれば、沖縄型の神人と、日本列島型の天皇「家」のイメージの違いだ。だが、この二つの変遷は、大きな違いがあるように思える。前者から後者への「変遷」や「敷衍」は、そんなに難しくはなかったであろう。前者の記憶が、共同体にまだ新鮮で留められているからだ。しかし、急いで付け加えるならば、この変遷には、すでに共同体の記憶と承認を必要とする。そして、いったん後者が定着すれば、前者の経験を共同体は忘れてしまうだろう。前者には異人としての「まれびと」の経験が結びついている。しかし、後者が定着すれば、その思想は消えてしまうだろう。折口が辿ろうとしたのは、後者を糸口とした、前者の経験であることは間違いないだろう。
ところで、これらのことが、「水の女」とどう関わるかについては、「水の女」が「機織る女」と結びつけて考えられていたことを思い出そう。壺の中を漂っていた赤ん坊は、「秦(はた)」氏であった。瓜子姫も、機織る女であった。