・「見る」ことの意味
・「暴力の波紋」の連鎖
・親と子の関係性
「Seeing is
believing(見ることは信じること)」は、通常「百聞は一見に如かず」の意味で用いられるが、「イサクの物語」のテーマはこのことわざの字義通りの意味をもう一度浮かび上がらせる。ごく粗い言葉で言うなら、以下のように要約される。「【言葉】のみを信じ、その【言葉】に操作され、【目の前にいる人を見ない】とき、もっとも酷い暴力が生まれる。認識されなかった子どもは、認識されること(それは通常愛されることとなる)を求める。その人を見ること、新しく見ること、その経験が自分と相手も新しく変えていく。」
しかも、(おそらく)上の世代がそうすること。(なぜなら、子どもたちはそれをすでにやっているのだから。)上の世代が先か、下の世代が先かはおそらくどちらでも良いこと。だが、たぶん、大人は言葉に翻弄されがちで、子どもがいつも新しく見ることのできる存在であることは、間違いない。
そういうわけで、以下「創世記」を「見ること」や「親と子の関係性」や「暴力の波紋の連鎖」といった視点で(はたまた、場合によってはその癒しというところまで含めることができればこの視点も入れて)検討していこうと思う。
むろん、「創世記」は成立事情も時代も異なる複数のテキストによって織られた複合体であるし、それが抱え込んでいる他の主題はどれも重大だろう。さらには、現在失われたりあるいは意図的に削除されたかもしれないテキストがあることで、これから検討していく主題にとって重大な欠落を「創世記」が抱えているのに、検討をしてしまうというリスクもある。だが、それにしても一つのまとまりのあるテキストとして現在伝えられているこの「創世記」だけで、ある程度の検討の筋は描けるのではないかとも思う。
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「見て」、「良し」という神
はじめに私が指摘したいのは、『創世記』の神は、いわゆる最初の7日間の記述における神と、それ以降の神とで、まったく性質が異なるということだ。これは、すでに指摘もされているようだし、その理由として、いわゆる「4資料仮説」といって、異なる資料を複合して創世記が成り立ったと説明されているようだ。しかし、それがどのような意味で異なった神なのかについて、私なりの意見を記すことも無益ではないだろう。私見では、それは私が『創世記』において問題にしたい主題が集約されたポイントであるはずである。
では、創世記第1章の冒頭を見てみよう。
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
冒頭の一文「はじめに神は天と地とを創造された」は、第1章全体の要約と読むのが適切であろう。というのは、「天」の創造は第1章第2節、陸地としての「地」の創造は第3節で記述されるからだ。
そうすると、原初の「形なき」状況に対して最初に意図的になされたアクションは、神が「光あれ」という言葉を発するということである。その順番を確認すると、「光あれ」と神が言う。すると「光がそこにあった」。そして、その次に「神はその光を見て、良しとされた」と続く。この順番をさらに抽象化して記述するなら、次のようになる。
1)ある現象よ在れ、と言葉を発する
→2)言葉の内容が現実化する
→3)現実化したものを見て、良しとする
(あるいは、ここまで抽象化すると、かえってぼやけてしまうのかもしれない。光だからこそ、この文脈が通ずるという可能性もあるかもしれない。)
いずれにせよ、1)から2)はいわゆる「思考の現実化」であるが、それに続く3)のポイントは「見る」ことと「良しとする」という二つの重要な要素で構成されている。もう少し平たく言うと、神の創造行為は、思考の現実化に続いて、「見て」「良しとする」ことで完結しているといえる。
そして、1)と2)の行為、すなわち、言葉にし、それを現実化するというプロセスは、第2章以降の「創世記」の神もずっと行っていることなのである。すなわち、「創世記」の最も頻出する行為のひとつである「契約」行為である。契約し、その約束を守ることで、現実化するというプロセスが、一貫して「創世記」を貫く。しかし、この3)の行為を第2章以降の神は行わない。さらにいえば、神からの言葉に従うアブラハムが決定的な瞬間で行えなかったことがこの「見る」という行為だということを後に明らかにしたい。
それにしても、みずからの創造行為を「見て、良しとする」神というのは、なんと高雅でやさしい気持ちがする神だろう。ここには、旧約聖書の不条理な神の影などどこにもいない。本稿の守備範囲を大きく超える難題だが、「複数の神」を想定するべき課題である。
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二日目以降の神の「創造」についても抜粋しながら、確認していこう。
神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。(二日目)
神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
…神は見て、良しとされた。(三日目)
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
…神は見て、良しとされた。(四日目)
神は、「おおぞら」をつくり、これを天と名付けた。三日目に陸地をつくり、植物をつくり、四日目に太陽と星をつくった。二日目以外にすべて、「神は見て、良しとされた」という言葉が付く。
神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は…創造された。
神は見て、良しとされた。
神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。(五日目)
五日目に、海の生き物と鳥をつくる。ここでも「神は見て、良しとされた」という言葉が付く。しかし、ここではさらに「祝福して言われた」という文が続く。これは奇妙な文である。言葉を言い、創造がなされ(言葉が現実化し)、それを見て、良しとする、と言う今までの流れであれば、祝福は「良しとする」という行為にすでに含まれているとおもわれる。それだけに、この五日目の最後の一文が、今までの流れからすれば、「プラスアルファ」であることは間違いない。さらに、この最後の一文は、今までのプロセスとは逆の流れである。「祝福して言われた、生めよ、ふえよ…」まず祝福をし、言う。このとき、「祝福」の意義は、今までの「良しとする」とは真逆のものになっている。すなわち、今までは創造された現実、あるいは創造されたものへの祝福である。だが、ここでは、祝福をし、命じている。神の行為が、創造行為や創造された現実への賛美ではなく、未来に向けた命令と変わっていることに、注意したい。(私は、この箇所は、後の時代に加筆されたのではないか、と想像する。というのは、「生めよ、ふえよ」は、アブラハム以降のイスラエル人たちへの、神の祝福であり命令の言葉とまったく同じだからである。しかし、関根によれば、第1章冒頭は「祭祀資料」といわれ、むしろ第2章以降の資料より新しい年代の成立だという。こうした問題は難解なので、正面から論じることは避けておくこととする。また、むろん生殖や繁栄について神は言っているのだから、それはまさに祝福と考えることもできるかもしれない。しかし、神であれ国家であれ繁栄を強制されるほど人間が低俗かどうかは置くとして、祝福の意味の反転がここでのポイントである。)
そして、六日目に「地の生き物」が創造される。
神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。
…神は見て、良しとされた。
この箇所も、今までと同様のプロセスが踏まれている。次いで「人」が創造される。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
「光あれ」という最初の言葉から今まで、神の言葉は全て「命令形」であった。しかし、ここでは「人を造り…治めさせよう」という文になっている。
1)ある現象よ在れ、と言葉を発する→2)言葉の内容が現実化する
の形をとっていない。神が意図することは同じであるが、神は意志をもって、なんらかの形で人を造ったことが想定される(第2章7節で、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」とある。だがこの箇所を第1章の詳しい説明として矛盾なしとは言えない。第1章では「男と女とに創造」とあるのに、第2章以下では明確に「人」を造り、そのあばら骨から「女」を造っているからである)。ともかく、ここでは1)→2)の形ではなく、もっと直裁に神は人を造っている。そして、造ったのちに、「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」とある。これは、「五日目」で初めて現れた、「未来に向けた命令」としての祝福の型である。
神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。
続けてのこの箇所は、少しバリエーションとなっているが、基本的には「1)ある現象よ在れ、と言葉を発する→2)言葉の内容が現実化する→3)現実化したものを見て、良しとする」の型を守っている。これで六日目が終わり、「創世記」は第2章に入る。
こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
この七日目は、大変な特徴を持っている。神が七日目にしたことは休息である。休息する神、これが、第2章以降の強迫的な神とは似ても似つかない特徴を感じさせる。神はこのみずからの休息した七日目をわざわざ祝福し、聖別している。なぜ祝福するのか?自分の大仕事を終えた自分への労いだろうか?おそらく、そうではなさそうだ。今までの神の行動をみると、「生めよ、ふえよ」型の言葉を仮にこの第1章における例外とするならば、神の祝福は、「見て、良しとする」ことであったと考えられる。つまり、神は自分の創造行為を終え、天地に生まれた動植物と人の営みを見て、祝福している。
(おそらく、神は自分の創造行為を、人に委ねて休息したのである。この仮説は、ベンヤミンが論じていたか・・・?しかし、創世記のテキスト自体に、ここまでの仮説の根拠は残されていない。だが「すべての創造のわざを終って休まれた」神は、その創造性を自分に似せて造った人に委ねているはずなのだ)
そして、「見て、良しと言う」かたちで祝福するこの優しい神は、ここで姿を忽然と消す。創世記は見た目上切れ目なく続くが、この後に現れる神が与える祝福は、「未来に向けた命令」としての祝福だけになるのである。