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目が開けるとき (創世記メモ3)

  • 蛇と神

 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった」『創世記』第三章はこうして始まる。だが、蛇と神がどちらが本当のことを言っていたのか。神は「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言ったが、蛇は女に「(それを食べても)あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言っている。ここだけを比べるならば、本当のことを言っていたのは蛇である。続いての蛇のせりふは「それを食べると、あなたがたの目は開(ひら)け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 もちろん、伝統的には蛇は悪魔の象徴であり、蛇が人間をだまし、神の示す道から背けさせている。その罰として、神はこの後、蛇にのろいをかけ、女と男に苦しみを与えているというふうに考えられている。だが、創世記のテキストは、やはり続けて蛇が本当のこと(少なくともテキスト上では事実であること)を述べていることを記載している。「それを食べると、あなたがたの目は開け…」と蛇が言っているが、たしかに実を食べたあと「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」とある。蛇の言ったことは、事実となって起きている

 

  • 目が開けるとは

 さて、ここで問題なのは、「目が開ける」とは、いったい何を意味するかということだ。これがわれわれにとって重要なのは、「目が開ける」ことが、「見る」とは何かという問題群に直結するにほかならないからである。むろん、この「目が開ける」は、それまで盲目で目が文字通り見えなかった者が、目が見えるようになることではない。前に書いたように、旧約聖書で一番最初に「見る」という言葉が現れるのが、この直前の箇所、「女がその木を見ると…」であり、その時点でもちろん彼女は木を見ているのだ。では、木の実を食べて「目が開けた」ということは何を指すのか。テキストは「ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので」と続いている。目が開いたことで、「わかる」ことがあり、それは「自分たちの裸であること」がわかったということだ。この「わかる」には、認識と判断が双方含まれている。裸という状態を認識するだけでなく、「裸のままではいたくない」という判断をしたことで、いちじくの葉で身をまとっている。しかもつづり合わせて、衣服のようにまとう。衣服をまとって裸を隠す行為の意味は、羞恥心というよりも、もっと原始的に境界をつくる、そのうえでおのれの身を守るということもあるだろうが、ここだけでは断定はしにくい。だがひとつ確実にいえるのは、この木の実を食べ、「目が開ける」ことで起きたことは、認識し、判断を独自に行うことができたということである。

 認識と独自の判断こそは、自由と創造行為の源である。そして自由と創造行為こそは、神の行いの範疇である。そこで、「神のように…なる」と蛇が言ったことも、また事実であったといえる。ただ、「神のように善悪を知る者となる」という蛇の言葉は、今までの事態からは飛躍しているようにおもわれる。裸でいることが「悪い」と思え、腰巻きをするほうが「善い」と思えたということなのだろうか?そうは思えない。ここで、もっとも難関なのは、蛇がいう「神のように善悪を知る」ということが何なのかということである(それは「善悪を知る木」とはどういう木なのかという問いでもある)。

 

  • 善悪を知るとは

【われわれは、スピノザがこのエピソードに関わって、善悪をどのように定義していたかをみてきた。よい・わるいとは、自分に「合う」「合わない」のことであり、それを見極める力こそがエチカであるということだ。】

 そうであるならば、この善悪を知る木の実は、食べた者に「自分に合う・合わないものがわかり、それを見極める力」を与えるということになる。つまり、蛇はこう言っていたということになる。「その木の実を食べても、あなたがたは決して死なないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、自分で認識し、判断するようになるでしょう。自分に合う・合わないものがわかり、それを見極める力を得るでしょう。神の創造の力とは、それらの合わせ技なのです。」

 この解釈は、あまりに一方的と言われるのを免れないだろう。事実、この後は、男は「わたしは裸だったので、恐れて身を隠した」と神に答えている。そして、男は食べたのを女のせいだといい、女は蛇のせいだという。ここには、自由も創造もなく、自らの行為から背を向け他の誰かのせいにして、ひたすら恐れている姿がある。そして、神は以下のようなおそろしい仕打ちをする。

 

「主なる神はへびに言われた、

『おまえは、この事を、したので、

すべての家畜、野のすべての獣のうち、

最ものろわれる…』

 

つぎに女に言われた、

『わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。

あなたは苦しんで子を産む…』

 

更に人に言われた、

『あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、

地はあなたのためにのろわれ、

あなたは一生、苦しんで地から食物を取る…』

 

 これは、先に確認した神の「言葉の現実化」としての創造行為でもあるが、むしろ端的に呪いの行為そのものである。蛇には文字通りの呪いを、人間には苦しみを与えている。出産の苦しみと食べ物を得る(すなわち飢えの)苦しみの出自を、原罪(*)として位置づけている箇所だ。出産と食べ物に苦しみを与えられるということは、生存することそのものに苦しみを与えられる行為だが、にもかかわらず、それを代償にしても替えがたい宝を人が得た瞬間でもあった。いや、人がその「宝」を木の実を食べて後天的に得たというのはまったく正確ではない。人は、やはりその「宝」をもっていて、それに気づいたのがこの時だったのだ。

 なぜなら、女は決してだまされていたのではない。女はその木を見ることもせず、ただもうろうと蛇の言いなりに邪悪な木の実を口にしたのではなかったのだ。「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」彼女は、確かに木を「見て」いて、その目に確かに美しく、食べるによく、賢くなるには好ましいと思われたのだ。自分には、きっとこの木の実は「よい」ものだと感じられ、いまがそれを食べる時と判断し、彼女は食した。彼女の感覚が、彼女の判断をつくり、自ら食べ、夫にも与えたのだ。これは木の実を食べた後に、腰巻きを巻くことよりはるかに重要なことだったのだ。「善悪を知る」ということが、スピノザが示唆したように、自分にとっての「よい・わるい」がわかり捌けることであるならば、このとき彼女は、みずから自分自身を自由にしたのだ